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コンヤ市の歴史

 フリギア(BC12C頃〜BC8C)、リディア(BC7C頃〜BC547)の時代から存在する都市といわれ、アケメネス朝ペルシャ、アレクサンダー大王の制服を経てセレウコス朝シリアの支配を受け、ギリシャ語ではイコニオン(Iconion)と呼ばれた。ペルガモン王国(BC282〜BC133)の後にローマ帝国に組み込まれ、初期キリスト教の舞台のひとつとなった。  パウロは第1次伝道旅行の際、パルナバを伴って訪れた。その後何度か訪問したとされる。多くの人がキリスト教に改宗したが、ユダヤ人の激しい迫害があったと伝えられている。
 パウロ書簡のひとつ、「ガラテヤ人への手紙」は、この地域を含む南ガラテヤ諸教会にあてたという説がある。  その後、東ローマ帝国のもとでキリスト教都市として栄えるが、マラズギルトの戦い(1071年)の後、アナトリアに侵入してきたトルコ人ムスリムの侵攻にさらされ、1076年にセルジューク朝の王族スライマーンによって征服された。まもなく、スライマーンの建設したルーム・セルジューク朝が第1回十字軍によってニカイヤを奪還された後、コンヤがかわって首都になるが、1097年にゴドフロワ・ド・ブイヨン、1190年にはフリードリヒ1世によって一時的に占領された。

 13世紀に入ると、ルームセルジューク朝は最盛期を迎え、東はアルメニアから南北は地中海、黒海両岸に至るまでのアナトリアを征服し、対岸のクリミア半島にまで努力を延ばすに至り、コンヤはその中心として繁栄を極めた。1237年のカイクバード1世の死後、モンゴル帝国の侵攻を受けて衰退に向かったルーム・セルジューク朝が14世紀の初頭に断絶すると、かわってコンヤの南のカラマンに興ったカラマン君侯国の支配下に入り、その首都になる。14世紀末にオスマン帝国のバヤズィト1世により征服されるがアンカラの戦いの後再びカラマン領となり、1466年に至ってカラマン君侯国がメフメト2世に征服されると、メフメトがアナトリア中部に建設したカラマン州の州都となった。
 この間、1228年には中央アジアのバルフ(現在のアフガニスタン北部)に生まれたイスラム神秘主義者、ルーミー(メブラーナ)がカイクバード1世の招請によってコンヤに定住、1273年に亡くなるまでコンヤで活動し、トルコを代表する神秘主義教団であるメヴレヴィー教団を開いた。コンヤにあるルーミーの墓廟はオスマン帝国期にはメヴレヴィー教団の道場として使われていたが、1927年にケマル・アタチュルク政権によって神秘主義教団は解散され、ルーミー廟は閉鎖された。廟は現在メヴラーナ博物館として一般公開されており、宗教性を薄められた今もなおコンヤを代表する建造物である。この他、コンヤにはカイクバード1世が建立したアラエッディン・モスクやセリム2世のカリミエ・モスクなど多くのモスクがあり、アナトリア随一の宗教都市として繁栄したかつての姿を現在に伝えている。


※コンヤ市の概要

現在はトルコ内陸アナトリア地方の主要都市となっている。コンヤ県の県都であり、2009年の人口は100万人に達する。
パウロがキリスト教布教に訪れたことで知られる都市、イコニウム(Iconium)の後身とされる。
2006年にコンヤ貿易センターに42階建のセルジュークタワーが建設された。
2011年にはトルコ高速鉄道のアンカラ・コンヤ高速船開業により、首都アンカラまで従来の鉄道で10時間以上掛かっていた時間が1時間30分に短縮された。将来は1時間15分で結ばれる計画となっている。自動車では両都市間は約3時間でむすばれている。